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《日本研究所 活動報告》神田佐野文庫企画展 シンポジウム「西周と幕末洋学の展開」開催報告

2025年11月05日水曜日(12:30〜14:40)、神田外語大学(4-101教室)にて神田佐野文庫企画展に合わせたシンポジウム「西周と幕末洋学の転換」が開かれた。開会に際して司会の上野(グローバル・リベラルアーツ学部同学科所属、日本研究所所員)から趣旨説明が行われたのち、町田明広氏(外国語学部国際コミュニケーション学科副学科長、日本研究所所長)による講演(三十分)、松田清氏(京都大学名誉教授・日本研究所客員研究員)による講演(六十分)と続き、司会から両講演に対する簡潔なコメント(十分程度)があったのち、三者による鼎談(二十分程度)がなされた。本開催報告では当日司会を務めた上野の理解に基づき、鼎談で補われた内容も適宜含めて、町田氏・松田氏の講演内容の概要を再現したい。

 

町田明広氏「西周の生涯と和製漢語」

町田氏は歴史学の観点から「西周の生涯と和製漢語」の題目で、西の生涯を特に幕末の活躍に力点を置いてふりかえるとともに、西が翻訳に関わった「和製漢語」について紹介された。西は石見国津和野藩にうまれ、六十八歳手前まで生きた当時としては比較的長命な人物で、しばしば話題にのぼる森鴎外との関係は、系図上は従兄妹でありながらも血のつながりはないという。四歳で祖父時(とき)雍(やす)より『孝経』を習い、六歳にして『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書を修めた早熟な子どもであった。十二歳にして藩校養老館に入学したが、このことは西の学識形成の上で大きな影響を与えた。彼は「徂徠学に対する志向を述べた文」(弘化五年=嘉永元年・一八四八)において、天理・道徳を追究する朱子学から、制度を重んじる徂徠学への転換を示し、ここに社会科学的実証性にもとづいた後の「哲学」にもつながるような姿勢の萌芽が見えるという。西は徂徠学への関心を高めていった一方、家業の医業を継ぐ決意をしていたが、藩命として「一代還俗・儒学専修」の沙汰が下り、医者になることをやめ、あろうことか朱子学の道へと進むことになってしまった。

町田氏によれば、彼の人生の大きな転換点の一つは、嘉永六年(一八五三)のペリー来航であったという。この頃西は様々な役目を負って江戸藩邸に出向いたが、翌安政元年(一八五四)、西洋学を志して脱藩を決行した。長男の脱藩はきわめて重い出来事と受け止めうるが、藩主亀井茲(これ)監(み)は柔軟な考えの持ち主で「永ノ御暇」を下し、目付・家老をはじめ国学者として知られる大国隆正も西の脱藩には理解を示したという。津和野藩は幕末にあって、相対的に柔軟で開明的な立ち位置にあったとされる。

洋学修行に際して西は、杉田成卿(杉田玄白の孫)、手塚律蔵らと交流を持ち、安政四年(一八五七)には、脱藩で臣籍のない西を手塚が様々に支援するかたちで、蕃書調所で職を得ることになる。人に恵まれた西の人生が偲ばれる。また、一橋慶喜(のち徳川慶喜)との交流が始まるのもこの頃で、西は慶喜に「蝦夷地開拓の義」を提案している。その後西は、オランダ留学を果たすことになるが、オランダへの渡航は十か月を要し——この間も暗礁に乗り上げ遭難する、ナポレオンの旧居を訪れるなど独特な体験を経て——、ようやくライデン大学のフィッセリングのもとで学習を始める。フィッセリングからは「治国学」(特に法学、政治学、国際法、経済学、統計学)を学んだが、その過程で西は、アジアでは帝国主義的植民地支配が広がっているのに対し、欧米では国際法(いわゆる「万国公法」)によって国家間の平等や平和が保たれている事実を理解していった。彼は西洋列強に対抗するための統一国家日本の実現、国体の変革、立憲制への移行などの必要を自覚しはじめた。町田氏はここにいち早く「近代日本人」への転換を果たした西周の姿を見いだす。また、「哲学」については、コントやミルの思想的立場にたつフィッセリングの影響に加え、オランダ哲学界の巨匠オプゾメール、ファンデン・ヴァイクらの著作を西が多く講読していた点も指摘された。

帰国後の西は開成所に勤め、幕府直参となり、十五代将軍徳川慶喜付きとして上京の命を受ける(西は慶喜にフランス語を教えていたという)。彼は慶応三年(一八六七)、会津・桑名他諸藩の藩士や新選組隊士へ講義を行い(『百一新論』に結実する)、慶喜より諮問を受けわが国最初の憲法草案とも言われる「議題草案」を提示し、これをもとにさらに「別紙 議題草案」(大政奉還後も行政権を将軍が握る徳川家中心の政体案)を作成した。

ところで、西周といえば「概念」をはじめとする数々の翻訳語を生み出したことで知られている。明治期に生み出された多くの和製漢語はその多くが中国に逆輸入され、現代中国語を含めて近代東アジアの共通知的基盤となったとされる。町田氏は、手島邦男氏の研究成果に拠りながら西の新造語(西自身の創作による語:「概念」「肯定」他)、転用語(漢籍や仏典を典拠とした語に新たな意味を付与した語:「現象」「民主」他)、借用語(欧米宣教師の洋学書や英華辞典で用いられた訳語の用いた語:「失意」「新聞」他)について最後に紹介された。

 

松田清氏「蕃書調所における英学」

松田氏は日本の洋学史・思想史の観点から「蕃書調所における英学」の題目で、西周の蘭学から英学への転換、蕃書調所での業務の中で翻訳した新聞雑誌記事の内実、ライデン滞在期以来の学業の達成とホフマン『大学 朱熹章句序』校閲の意義について研究成果を披露された。

松田氏によれば、従来「オランダ留学」の印象から蘭学学徒としてのイメージが強かった西周であるが、実は彼が一貫して関心をもっていたのは英学であったという。「オランダ語の兵書を読むため」という当時としてはもっとも説得的に受け止められた動機のもと脱藩した西周は、杉田成卿塾、大野藩邸などで和蘭文典を通じてオランダ語を学習し、その後手塚律蔵の又(ゆう)新(しん)塾に入塾するが、特に英語の才が見込まれ、手塚の指示を受けて中浜万次郎のもとで英語の発音を学び、さらに専ら英書を多く読んでいたという。このような西周の英学傾倒が窺える業績が、日本で初めて整版された英文法書『伊吉利文典』の刊行である。同書はロンドンの教科書出版社が貧困層向けに発行した廉価な教科書シリーズの一冊で、手塚律蔵とともに又新堂から刊行したものである。

西周が手塚律蔵とともに蕃書調所の業務に従事することになったのも、英語の力を見込まれてのことであった。松田氏はすでに蕃書調所教授方が翻訳にたずさわった欧文記事の目録作成とその典拠の特定研究を詳細に行っており(『神田外語大学日本研究所紀要』第十七号所収「蕃書調所教授方の欧文典拠目録」参照)、その成果から西周(および手塚律蔵)が関与した翻訳記事を概観してみると、中でもイギリスおよびロシアにかかわった戦争関連記事が多く散見される。今回松田氏が特に注目されたのは、資料番号248、257、258、259に言及された第二次アヘン戦争(アロー戦争)に関わる記事である。蕃書調所においてオランダ語ではなく英語で中国情勢のこうした記事の翻訳に従事するかたわらで、西の眼を大いにひきつけたと思われるのが『上海新聞跋訳』(原文:North China Herald487号一八五九年一一月二六日(茨城大学附属図書館文庫蔵))に載る、グリフィス・ジョン師「支那の倫理学、とくに人間の本性と罪の教説に関連して」と題された報告の抄録であったと松田氏は見る。これは、中国の「倫理学」である儒学思想の展開が、孔子、子思、孟子、荀子、楊氏、韓昌黎らに言及されながら整理された記事であるのだが、西周は幼いころから儒教に親しみ二十歳の頃には藩校養老館で句読(儒学助教)をも務め、朱子学・徂徠学の素養もあった。このことを踏まえれば、彼はこの記事を夢中になって訳出したに違いない。原文において…the doctrines of Human Nature and of Sinとある題のSinを「天道」と訳出している点などはきわめて特徴的であり、このことの含意の解明は今後の研究に譲るものの、西の思想を史料に即して検証する上で注目に値し、示唆に富む発見である。

ところで西は当初からアメリカ留学を切望していたものの、現実の様々な制約のすえオランダに留学することとなってしまった。しかし、西が留学した十九世紀のヨーロッパは、自由主義・立憲主義が隆盛しており、結果からみればアメリカへ留学するよりももっと貴重で豊かな体験を得られたものと推測される。彼はホフマンの『大学 朱熹章句序』の校閲を津田真一郎(のちの津田真道)と果たしている。蘭学・英学に親しんでいてもなお、儒学、とりわけ朱子学と西周との密接な関係がここに確認できる。また、彼のオランダ留学の成果のうち有名なものの一つが、帰国後開成所教授となった折に幕命によって取り組んだライデン大学法学部教授シモン・フィッセリングの講義録「国際法」の翻訳であろう。これはその後、「畢洒林氏万国公法」として慶応四年(一八六八)に刊行される。西は、これまで日本にはない数々のヨーロッパ特有の概念を初めて日本語に翻訳しなければならない事態に直面していた。それは、単に相当する語が存在しないという単語レベルの困難としてのみ見られるべきではない。英字新聞の翻訳にせよ、欧州独自の法体系の翻訳にせよ、こうした一切の新鮮な概念を初めて日本語に訳出しなければならなかったことの困難は、今日出来合いの単語を当てはめれば曲がりなりにも一定の翻訳ができるわれわれの時代のそれとは大きく質の異なるものであろう。この翻訳という営みにおいてわれわれが西周の胸中に観なければならない一つの重要な葛藤は、英・蘭・日のあわいに立たされた彼の文化的苦闘である。「初めて」言葉を生み出すということの重みが、ここに見届けられなければならないのである。

その彼の自信と誇りを読み取るべき署名が、ライデン滞在中にオランダ語序文を寄せたリンダウの『日本旅行記』蘭訳に付されたそれである。西周は「幕臣」たる己の立場をJapansch officierと訳し、また法学を修めた者としての自らのあり方をregtsgeleerdheid(「法学生」)と訳している。この何気ないサインには、日本の幕臣であるこの「西周助」こそが、ヨーロッパの国家学(staatkundig gebied)をオランダ語で初めてここまできわめたのだという自負と矜持とが読み込まれてよい——彼の人生においては、このような重みが刻み込まれた署名なのである。また西周は、おそらくは同じころ、洋書調所同僚の黒田行次郎宛てにライデンから書簡を送っている。そこには、「切歯扼腕之士」(すなわち反西欧の急進的攘夷派の士ら)の面前では「禁言なり」としながらも、初めて目にした欧州世界の現実に圧倒された彼の純粋な感動を隠してはいない。

以上を総合するに、西周は実は儒学を完全に捨ててはおらず、むしろ儒学と西洋哲学とを総合した新たな統一的哲学を志向していたのではないかという見通しが示され、その内実の研究は今後の課題とされた。松田氏の講演は、史料の確かな精読の先に、西周の苦悩が生きたままに蘇る躍動的なもので、西周がひとりの人間として己の内で翻訳を通じて葛藤して思索を紡いでいった姿がありありと再現され、講演を聴くなかで深い感動をおぼえた。

 

当日は西周の御子孫にあたる西周作氏も会場にみえていた。西周が日本の近代化に果たした大きな役割、その功績と偉業が今を生きる我々の日常にも無自覚な形でつながっていることが確認されるとともに、激動の時代を生き抜いた「人間西周」の葛藤や苦悩があらためて浮き彫りにされた機会となった。

(上野太祐)